その地域の気候風土に適合する「永遠の杜(100年続く森)」明治神宮の森づくりを紹介
- 本多静六とは
- 「明治神宮の森」造苑の基本コンセプト
- 本多静六が描いた「森の未来予想図」と現存。100年続く森とは。
- 全国の造苑された「鎮守の森」はどこ?またその現存植生とは
本多静六とは
本多静六は、日本初の林学博士であり明治神宮の森づくりをはじめ「公園」の父と呼ばれ日比谷公園など全国60以上にもなる公園植栽の設計を手掛け、林学や造園学の分野で多くの功績を残した人物です。
明治神宮の森、造苑の基本コンセプト
明治神宮の森はおよそ100年前の大正4年(1915年)、世紀を超えたその先の森の姿を想定し人工的につくられました。多様性(種類)、多層性(高さの違い)に重きを置き、人の手をほとんどかけず、自然の力によって世代交代を繰り返し、永続する自然の森を目指して、本多静六が中心となって設計したものです。先人たちが知恵を絞ってつくったこの森は、現在では人工の森の最高傑作のひとつとされ、人工林であるにもかかわらずその姿と規模においては鎮守の森の代表格と言えましょう。
造営当時の代々木周辺では工場が建ち並びはじめていました。すでに公害も進んでいて、大木や老木は次々と枯れ、代々木の土地は荒地となっていました。本多静六らは、気候条件や土地に応じた樹種と公害問題への対策も検討し、「乾燥した代々木の土地、さらに煙害に対してスギ、ヒノキ、マツなどの針葉樹は永遠安全に維持することは困難」と考え、主木をシイ、カシ、クスなどの常緑広葉樹と定めました。それは、自然に落下する種子によって再生し、人為に頼らなくても末永く維持・再生することができ、煙害にも強く神社の境内に森厳な神宮林を形成するものとして、森林造成計画に選ばれたのです。
「森の未来予想図」と現存
しかし、全国からの十万本にもおよぶ寄進された木の上位十種は、イヌツゲ、クロマツ、クスノキ、サカキ、カシ類、ヒノキ、ヒサカキ、アカマツ、スギ、ツツジ類であり、以下スダジイ、サワラ、ケヤキと続きました。つまり、意図していた森林造成計画に対して合致したものではなく、クロマツ、ヒノキ、アカマツ、スギといった針葉樹も数多く含まれていたのです。当事者たちは、すべての献木を捨てることなく植栽方法で対処しました(写真1)。
あれから100年を経た今では、マツ、スギ、ヒノキは一部を除いて見られません。スダジイ、カシ類など土地本来の樹種の生長に伴い、次第にその姿を消してきています。造営当時にはこれを見据え、「森の未来予想図」(図1)を描いています。実際には森の自然淘汰は予想よりもはやく、現在は、未来予想図によるところの150年後あたりの構成になっています。
宮脇昭(植物生態学者・鎮守の森のプロジェクト副理事長)は、「明治神宮鎮座50年事業」の一環として、明治神宮の森の植生調査を依頼され、その調査結果として、「明治神宮宮域林の植物社会学的研究」を1980年に発表しました。そこには、「本来の常緑広葉樹林に近づいている」、「林床や林縁の適切な管理のもとに現状の保育を維持すれば、大都市の中に人工的に形成された神域林、郷土林として最もバランスのとれた、安定した常緑広葉樹林に発達することが期待される」と記し、明治神宮の森を調査の結果から高く評価しています。土地本来の森は、人間の管理なしで維持され、100年、1000年続く森となり、将来、首都直下型地震が発生した時には、大火災などから人々を守る森でもあります。
全国の造苑された「鎮守の森」
実は、明治神宮以外にも造苑された「鎮守の森(社叢林)」は全国各地に存在します。古いものでは1907年植栽の宮崎神宮、1941年植栽の奈良県橿原神宮や靜岡縣護國神社(静岡神宮)、1942年の奈良縣護国神社などがあリます。これらは現在ではいずれも立派な常緑広葉樹林となっています。
コラム:本多静六も提唱していた、津波から命を守る「森の防潮堤」の重要性
監修:鈴木伸一/東京農業大学地域環境化学部教授
鎮守の森のプロジェクト技術部会長。専門は、植生生態学、地域環境保全学。環境省自然環境保全基礎調査植生図凡例検討委員会、経産省環境審査会顧問、群馬県尾瀬保護専門委員、神奈川県文化財保護審議会委員